県庁所在地浦和の謎

・昭和45年(1970年)の浦和市の人口は、26万人。
県都浦和の歴史」(小島照著)に書いてある。当時は、
 埼玉県のなかで川口、大宮に次いで3番目の人口であった
 ことを覚えている。工業都市川口、商業都市大宮、
 文教都市浦和、そんな区分がなされていた。
・当時の浦和は「三ない県庁所在地」と呼ばれていた。
 三ないとは、ロードショー映画館がない、特急が停まらない、
 デパートがない。他の県ではありえないことが埼玉、浦和にはあるのだ。
・大宮には映画館(ハタシネマ)もデパート(高島屋)もあったが、
 浦和人はプライドが高いから大宮には行かず、東京に出ていた。
・昭和50年ぐらいだったかポパイかなんかの雑誌で、原宿を歩いている人に
 どこから来たかをたずねたら、1位が浦和、2位が府中だというアンケートが
 載っていた。これを読んだ時、そうだよなと思った。浦和人は、東京人に
 なりたがっていたんだと思う。
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原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)に埼玉の謎という
 項目を発見。出雲で埼玉……というのが?であるが。

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

・この本を読むと氷川神社は出雲系の神社なのだそうだ。埼玉県南は、氷川神社
 そこらかしこにある。実家の近くには本太氷川神社があった。去年まで住んでいた
 東浦和にも氷川女体神社をはじめ見沼代用水に沿って氷川神社が点在していた。
氷川神社の総本山は、大宮の氷川神社だ。大宮という地名がそれを語っている。
 武蔵の国の一の宮でもある。
・浦和も大宮も中山道の宿場町であるが、江戸時代も浦和よりも大宮のほうが町と
 しては大きかったそうだ。
・遷都で明治天皇が京都から江戸に移ってきて、早くも11日目には大宮の氷川神社
 に来ているという。そんなに早くと思うが、それは武蔵一の宮として氷川神社
 重要性を物語っている。
・なぜ浦和が県庁所在地になったかなんて考えてみたこともないが、確かにヘンだ。
 大宮が県庁所在地となったほうが自然ではある。原武史はそこが「埼玉の謎」だ、
 と指摘しているのだ。