おやじが海軍に持っていった本

・きょうは終戦記念日。父にいままで聞いたことがない
 戦時中のはなしを聞く。
・昭和20年(1945年)。父は18歳。国鉄(現JR東日本)に
 勤めていた。大宮車掌区で川越線高崎線東北線
 貨物線(現湘南ライナー)の車掌だった。ある日、停車中、
 はたけにすいかを盗みにいったら、かんぴょうだったなんて
 いうからやんちゃだったようだ。国鉄へは、「寝台ボーイ」の
 白い制服にあこがれて入ったそうだ。戦前に寝台車が走って
 いたとは知らなかった。
・その頃は、十条の鉄道官舎に住んでいて、窓からB29が旋回
 して下町方面に向かうのを見ていたそうだ。
・昭和20年7月、徴兵の年令が引き下げられて父にも赤紙
 が来た。故郷は、群馬県高崎。近所の人の万歳三唱で
 見送られたそうだ。これも水兵さんの夏服にあこがれて
 海軍を希望した。カッコから入る父の性格はいまだに
 変わらない。ちなみに父はかなづちだ。
・神奈川県の三崎の兵舎に練習兵として配属。横須賀に着く
 頃には、棺桶に入るような気持ちだったという。
・父に聞いてみた。「入隊するときに本は持っていったの?」
 こたえが「三省堂 コンサイス 和英辞典」と聞いて
 ビックリした。
・野球だって、英語は敵性語でストライクが「よし」で、
 ボールが「ダメ」と直されていた時代だ。そんな時代に
 和英辞典とは。
・「和英辞典なんて持っていたら没収されたんじゃないの」
 と聞いてみたら、そんなことはなく持ち帰ったそうで
 いまも実家のどこかにあるようだ。
・父が和英辞典を持ち込んだ理由は3つある。
・ひとつは、三省堂に勤めていたいとこからもらったと
 いうこと。もうひとつは、英語が好きで勉強したかった
 こと。そしてもうひとつは、海軍では英語を使っていたと
 いうこと。
・海軍では、航海術などは英語で指示がでていたようで、
 和英辞典が役に立ったらしい。うーん、これは知らなかった。
・三崎の兵舎にいたとき、戦闘機グラマンに機銃掃射を受けて、
 柱に隠れて助かったそうだ。
・8月15日の玉音放送は兵舎で聞いた。いちばん最初に思った
 のは「これで家に帰れる」といううれしさだった。元気の
 いい将校は、松の木を日本刀で滅多切りしたりしていた
 という。
・15日の夜は、海岸で不要になった冬の軍服を集めて
 燃やして、軍歌を唄いながらみんなで泣いたそうだ。
・除隊になったのは3日後の8月18日。非常食のせんべいと
 退職金1000円をもらったという。
・この18日までの3日間が長く感じたそうだ。満員の横須賀線
 京浜東北線、上野から高崎線に乗り換えて故郷高崎に帰って
 来た。
・家に着いたとき、祖母は「お帰り」が言えなくて
「ことしもコスモスが咲いたねえ」と言って末っ子の父を
 迎えたそうである。