・こどものころ、お出かけといえば上野だった。御徒町の駅員をしていた父が仕事
を終えるのを待って、上野松坂屋のレストランで食事したり、屋上の遊園地で
遊んだり。帰りはを歩いて上野駅というのがお決まり。
・帰りの途中、父が鈴本演芸場の前で呼び込みに「お客は入っているかい?」
と声をかけるのもいつものことだった。
*
・最近になって、父にその鈴本演芸場のことを聞いてみた。父が御徒町駅に勤務して
いたのは昭和26年から45年まで。御徒町駅は、鈴本に通う芸人が多く利用
していたようだ。三味線漫談の都家かつ江は、当時京急線の立会川に住んでいて、
窓口にいた父は、帰る時間を見計らっていつも立会川までの切符を用意して
おいたそうだ。そうすると都家かつ江は「気が利くじゃねえか、おとうと」と
声をかけてくれたというのが自慢話。
・鈴本演芸場との付き合いは、両替。当時、銀行もあまりなくて両替に御徒町駅まで
きていたそうだ。そのお礼に入場券をもらっていた。そうなことで付き合いが
始まった。父が鈴本で観たのは、柳僑、今輔、金馬、小さん、アダチ龍光、助六、
いとしこいし、小南、三木助、三木松、円蔵、円生、米丸、三平など。
・鈴本のスタッフは、呼び込みのさかいさん、切符売りのあいちゃん、もぎりの
お花さん、下足番の山形屋夫妻、寄席文字の宇野さん。芸者あがりでちょっと太めの
お花さんと仲がよかったようだ。仲がよいというと変だが(笑い)
・父はまだ独身で大宮・大成三丁目の独身寮に住んでいた。その寮の二周年記念
の寮祭で落語会をすることになった。そこでお花さんに紹介してもらったのが、
春風亭橋之助だった。橋之助には落語と日本舞踊をやってもらい、大宮駅の
東口駅前で酒を飲まして返した。落語はわかりやすいはなしかたで、踊りは
うまかった。
・橋之助は、赤羽の電車区出身ということもあって、父とは気が合ったようだ。
橋之助に連れられて鈴本の裏で、餃子というものを初めて食べたという。
*
・Googleで橋之助を検索していたら、ほとんど情報がない。ひとつだけ引っかかって
きたのが立川談志「現代落語論」(三一書房)。「春風亭橋之助のこと」という
小見出しがある。
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春風亭橋之助がいた。この会で「それこそ急にうまくなったのが橋之助だった」
そうで。
この橋之助も心臓麻痺で惜しくも死んだ。一席終わると『ずぼら』などという踊り
も披露してくれて、ちと汚れだったが(略)“今いたら……”と時折思うことが
ある。月並みだが惜しい奴を故人にした。
・いつものように鈴本演芸場に顔をだすと、お花さんが泣いていて橋之助が死んだ
ことを知らされたそうだ。当時は睡眠薬プロパリン100錠を薬局で売って
くれた時代で睡眠薬の飲み過ぎが原因じゃないかと思ったそうだ。
*
・父に「現代落語論」を見せたら、寮祭で橋之助が踊ったのがこの『ずぼら』
だったと。落語の演目は覚えていないとのこと。
・こんどの8日に、大宮の「てっぱく」に行く予定があり楽しみにしている。
「てっぱく」は、父が落語会を開催した寮のあたり。