鈴本演芸場のこと

・こどものころ、お出かけといえば上野だった。御徒町の駅員をしていた父が仕事
 を終えるのを待って、上野松坂屋のレストランで食事したり、屋上の遊園地で
 遊んだり。帰りはを歩いて上野駅というのがお決まり。
・帰りの途中、父が鈴本演芸場の前で呼び込みに「お客は入っているかい?」
 と声をかけるのもいつものことだった。
           
・最近になって、父にその鈴本演芸場のことを聞いてみた。父が御徒町駅に勤務して
 いたのは昭和26年から45年まで。御徒町駅は、鈴本に通う芸人が多く利用
 していたようだ。三味線漫談の都家かつ江は、当時京急線の立会川に住んでいて、
 窓口にいた父は、帰る時間を見計らっていつも立会川までの切符を用意して
 おいたそうだ。そうすると都家かつ江は「気が利くじゃねえか、おとうと」と
 声をかけてくれたというのが自慢話。
鈴本演芸場との付き合いは、両替。当時、銀行もあまりなくて両替に御徒町駅まで
 きていたそうだ。そのお礼に入場券をもらっていた。そうなことで付き合いが
 始まった。父が鈴本で観たのは、柳僑、今輔、金馬、小さん、アダチ龍光、助六
 いとしこいし、小南、三木助、三木松、円蔵、円生、米丸、三平など。
・鈴本のスタッフは、呼び込みのさかいさん、切符売りのあいちゃん、もぎりの
 お花さん、下足番の山形屋夫妻、寄席文字の宇野さん。芸者あがりでちょっと太めの
 お花さんと仲がよかったようだ。仲がよいというと変だが(笑い)
・父はまだ独身で大宮・大成三丁目の独身寮に住んでいた。その寮の二周年記念
 の寮祭で落語会をすることになった。そこでお花さんに紹介してもらったのが、
 春風亭橋之助だった。橋之助には落語と日本舞踊をやってもらい、大宮駅の
 東口駅前で酒を飲まして返した。落語はわかりやすいはなしかたで、踊りは
 うまかった。
橋之助は、赤羽の電車区出身ということもあって、父とは気が合ったようだ。
 橋之助に連れられて鈴本の裏で、餃子というものを初めて食べたという。
           
Google橋之助を検索していたら、ほとんど情報がない。ひとつだけ引っかかって
 きたのが立川談志「現代落語論」(三一書房)。「春風亭橋之助のこと」という
 小見出しがある。

現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)

・昭和30年ごろのことか、談志は「若手落語会」に入っていた。そのメンバーに
 春風亭橋之助がいた。この会で「それこそ急にうまくなったのが橋之助だった」
 そうで。

この橋之助も心臓麻痺で惜しくも死んだ。一席終わると『ずぼら』などという踊り
も披露してくれて、ちと汚れだったが(略)“今いたら……”と時折思うことが
ある。月並みだが惜しい奴を故人にした。

・いつものように鈴本演芸場に顔をだすと、お花さんが泣いていて橋之助が死んだ
 ことを知らされたそうだ。当時は睡眠薬プロパリン100錠を薬局で売って
 くれた時代で睡眠薬の飲み過ぎが原因じゃないかと思ったそうだ。
           
・父に「現代落語論」を見せたら、寮祭で橋之助が踊ったのがこの『ずぼら』
 だったと。落語の演目は覚えていないとのこと。
・こんどの8日に、大宮の「てっぱく」に行く予定があり楽しみにしている。
 「てっぱく」は、父が落語会を開催した寮のあたり。