年間20ミリシーベルト

・子供の屋外活動を制限する基準放射線量年間20ミリシーベルト
 とした。
・録画したNHK教育テレビETV特集 ネットワークでつくる
 放射能汚染地図」を観た。この番組にも「年間20ミリシーベルト」基準
 のことがでてきたが、どうもこの数字に対して政府内できちんと
 議論されていないようだ。

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・この「年間20ミリシーベルト」基準の即時撤回要請に署名した。
・理由は犯罪が起こったあとに法律を変えて逮捕するような
 ものだと思ったからだ。これを認めたらこれからも同じように
 他の放射能数値基準を上げて政府ならびに東電の責任逃れに
 つながりかねない。
          
・きょうの毎日新聞夕刊で写真家の浅井愼平が「文明」について述べている。

欧米諸国は、紆余曲折、試行錯誤しながら文明を築いてきた……けれども僕らは、
その仕組みや利益を手に入れながら、生みの苦しみを経験しなかった。……文明を
生きるとは、何かと何かを取り換えっこすることなんです。僕らは、原発による
豊かな生活と、その地域の人たちの「安全」を引き換えにしていた。

・これを読んでいて文明に対する日本人の未熟さだと思った。原発にしても自分達
 で作り上げてきたものではなく、外国からもたらされたものであるから、それに
 対しての歴史が浅いんだ。
・そこで思い出したのが、伊丹万作「戦争責任者の問題」のなかの一文。
 これは敗戦後、「だまされていた」という人が多く、それは悪だというはなし。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの
中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、
思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになって
しまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の
本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度
鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも
自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

伊丹万作エッセイ集 (ちくま学芸文庫)

伊丹万作エッセイ集 (ちくま学芸文庫)

・政府や東電のいう「安心」「安全」にだまされていたということよりも、
 日本人の歴史のなかで原発についてあまり議論されてこなかったことが
 今回の事故につながっているのだ。
          
・「ETV特集 ネットワークでつくる放射能汚染地図」のなかで常磐線の浪江駅が
 でてきた。なつかしい。
・まだ、わたしが10代のころ、杉江さんといっしょに1ヶ月住み込みのアルバイト
 をしたことがある。バイトが終わって、北海道に旅行に行く途中で杉江さんの
 浪江町の実家に宿泊させてもらった。
・当時の日記をみると昭和53年(1978年)8月11日にわたしは、
 東電原子力発電所に自動車で連れて行ってもらった。中には入っていない。
 行ったことだけしか書いていないが、あの立ち並ぶ建屋はうっすらと覚えている。
・日記に感想がないということは原発についてなにも考えていなかったのだな。
・杉江さんはいまごろどうしているのだろう。