忘れ残りの記1

吉川英治は、自伝の本の名前に「忘れ残りの記」とつけた。うまいネーミングだなと
 思ったもんだ。入社当時のことを思い出して書いてみよう。
・入社したのは、1985年2月。欧文電算写植・版下の営業。電算なんて古くさいなあ。
 それ以前は、求人広告の営業をやっていて、お客さんだった。当時は、コンピューター
 などみたこともなかったが、この会社には大きなコンピューターが並んでいた。これ
 からの時代は、これだ!と思って入社させてもらった。
・欧文電算写植機は、アメリカ製のWANGとドイツ製のScantext。Scantextなんて、
 一台2000万円ぐらいしたいたんじゃないだろうか。和文の写植機もあったな、
 写研のPAVO。
 それにでかい自動作図機。これで版下の台紙をロットリングで引いていた。それに紙焼
 きの機械。なんて名前だったっけな。
・おもしろかったのが、タイポジターという大きな文字を打てる見出し書体専用の
 写植機。これは簡単なのでわたしが使っていた。天地5cmぐらいのロール状の印画紙に
 一字ずつ打っていく。100ポイントぐらいまでできたかな。字づめは、見ながら決めて
 いく手作業。欧文書体をどうやったらキレイに組めるか、これはほんとうに勉強に
 なったな。
          
・学生のころ(1981年)に新聞社で半年ほど校正のバイトをしていたことがある。
 まだ、新聞を活版で印刷していて、植字・文選の熟練工がたくさんいた。いま考えると
 植字・文選の技術をまじかにみてきたことが、いまの仕事に就こうとしたきっかけかも
 知れない。
朝日新聞など大手の新聞社には、大規模な電算写植システムが導入されていた時代で、
 バイト先の新聞社もわたしが辞めたあとすぐに電算写植システムになってしまった。              
・欧文写植というと、IBMのコンポーザーというのが古いけれど主流だった。丸い鉄
 の玉にアルファベットがくっついていて、それが回転しながら印字していた。
 ラインが揃わず字間のアキもバラバラで並びはキレイでなかった。むかしの取扱説明書
 なんかみるとこのIBMのものが多い。
・40代のオペレーターの女性がいて、このひとは英文タイプライターを永年やってきた
 人でキーボードが壊れるのではないかというぐらい強い指さばきだったのも思い出
 される。
           
・欧文写植を専門にやっている会社がすくなかったから、グラフィックデザイナーには
 重宝がられていた。それだけでなく、街の小さな印刷屋とか、夫婦でやっている写植屋
 とかもお客さんだった。夫婦でやっている写植屋というのはいたるところにあったな。
・ERASなんてフォントは、日本で一番最初に持っていたんじゃないだろうか。
           
・電算写植システムが最新鋭だったんだが、時代の流れは早かった。DTPということばが
 でてきた。この初期のDTPはいまとは違うような気がする。どちらかというと自動
 作図機が近いような。Pageなんかに行くと国内外のメーカーがDTPのコンピューター
 をだしているんだが、基本システムいうのがないから使い方がバラバラ。売れなかっ
 たろうな。
           
・1990年ぐらいになるとMacが登場して、一気に変わるんだ。当時だとMacシステムで
 200万円ぐらいか。いまと比べるとまだまだだけどね。幕張のMac Expoにいくと
 前の年に一コマの小さいブースだったソフトメーカーが、でかいブースを占領していた
 なんてこともあった。
           
・わたしも1991年には人事異動でデザイン・販促の営業に変わった。
・あるグラフィックデザイナーのはなしを覚えている「ファックスから写植が
 でてきたら、あなたが写植をもって来ることはないのになあ」古いはなしだ。