忘れ残りの記2

・1985年当時の東京からなくなったものがいくつかある。
 そんなものを思い出してみたい。
・会社は港区西新橋にあった。いまでも新橋界隈は、ごちゃごちゃ
 している感じを残しているが、当時は外堀通りは古いビルが
 立ち並んでいたし、烏森神社の参道はびっしり飲み屋が並んでいた。
虎ノ門にまるがだか、更科だかの女性だけでやっている大きなそば
 屋があって、ちからうどんだったかな名物が。うまかったな。
・よく行くクライアントが、新宿御苑、谷中、新富町にあった。
 谷中にあった印刷会社は、いまTOKYO BIKEの事務所になっている
 ところ。不忍通りもマンションがまだほとんどなく、商店がならんで
 いた。いまほど観光客が歩いていることはなく、カメラをぶら下げた
 定年すぎのグループが古い町並みを写真に納めていたぐらい。
          
・1.バスの車掌
 六本木の国際文化会館の仕事もしていて、バスに乗っていっていた。 
 新橋から渋谷行きのバスはいくつかのルートがあって、神谷町経由のバスに
 いつも乗っていた。このバスがなんと女性の車掌さんがいたんだ。
 うしろの出口の横に小窓があって、そこから顔を出して「神谷町経由
 渋谷行きです」なんて言ってた。他はワンマンバスだから、新しいのだが、
 このルートのバスだけ古くてね。わたしは埼玉で育ったのだが、埼玉だって
 バスの車掌さんなんて、1960年代で終わっていたと思う。まあ、いつの
 間にかワンマンになってしまったが。
          
・2.人力車
 いまじゃ浅草や谷中でも人力車がいるけれど、どれも観光用だよね。夕方になる
 と東銀座の昭和通りあたりで芸者さんを乗せた人力車をよく見かけた。
 江戸の風情が残っていたんだな。
          
・3.行商
 行商のおばちゃんもいつの間にか見なくなった。京成の柴又に住んでいたこと
 があるのだが、そのころ朝早い電車にのると行商専用車両があって、普通のひと
 はその車両に乗れなかった。神田駅南口の行商のおばちゃんからは、よく豆もち
 なんかを買っていたなあ。
          
・4.そばやの出前
 築地の本社に電通があったころ。電通が仕事納めの日に年越しそばを近所の
 そばやから頼む習慣があって、この日に築地あたりに行くとそれこそ何枚もの
 せいろを重ねた自転車の出前持ちにあった。あれも年末の風景だったが。
          
・5.半ドン
 半ドンなんて死語だろうな。週休二日がまだ完全でなかったころ、月に二回
 土曜日が昼までだった時がある。そんな土曜の午後は、ひとりでぶらぶら
 するのだが、一番よくいったルートが内幸町から都営三田線に乗って神保町。
 神保町では、スイートポーズで餃子の中皿とキリンビールの小瓶(いまは
 小瓶はない)。餃子を腹に収めたら、ならびの書肆アクセスへ。なにを買って 
 いたのかな。本の雑誌や北海道旅行ガイド「とほ」なんかだろうか。
 古本屋には行ったのだろうが、あまり覚えていない。いまはなき喫茶リオで
 コーヒーを飲んだり、響でジャズを聴いたり。ラドリオは、いまは店が小さい
 がむかしは、コミガレの前に入り口があったのだが、店を二つに分けて
 喫茶リオになった。いまはイベントスペースになっている。